2012年10月27日土曜日

真珠湾攻撃の学習

 昨日は中学生になったばかりの次男坊の遠足
1時間ほどバスに乗って,戦艦マサチューセッツの見学だった。
私はシャペロンとして、次男坊の同級生達につきそった。

 かっこいい、物語の中のような本物の軍艦
7人のボーイズは、砲台に登ったり、中に入ったり、大いにはしゃいでいた。
中にはたくさんの日本軍の資料もあった。

 特攻隊の方達がもっていたのだろうか、たくさんのお名前が書かれた日の丸。
娘さんや妹さんが作られたのだろうか,手作りの小さなお人形。
それと同時に、展示してあるアメリカ兵の部屋の中には、幸せそうな結婚式の写真が飾られていたり、可愛い子ども達と一緒に撮った写真が飾られていたり。
 私が立つこの船の中にある武器が、すべて日本に向けられていた時があったことにいたたまれない思いをしながら、私は走り回るボーイズを追いかけていた。

 3時間ぐらいの見学がすんで帰る頃に、とてもすばらしいショーがあると先生が子ども達を集めはじめた。
私も付き添いの一人として、興味を持ってスクリーンを眺めていた。
そうしたら、それは「Pearl Harbor Experience (真珠湾攻撃の体験)」だったのである。




 資料館の壁面を使った大きなスクリーンからは、真珠湾攻撃の記録映画が上映された。
観客である私たちは、戦艦アリゾナとほぼ同じ型であるという、戦艦マサチューセッツの側で,それを見るのである。

 映像は平和で穏やかなハワイの風景からはじまり、そこで楽しげにサーフィンに興じたり、ハワイの人々と仲良く過ごすアメリカ兵の日常から始まった。
そして、そこに忍び寄るように日本軍がやって来たというナレーション
Jap、Japと連呼される。

 そして,ご丁寧に機銃掃射が再現され、射撃音とともに,水面が跳ねる。
戦艦マサチューセッツを背景に、大音響で飛行機が墜落する音、爆撃音が再現される。

 映像は真珠湾攻撃があって、日米開戦、そして、勇ましい若者が恋人と別れながらも戦地に赴くプロパガンダそのもの映像が続いた。
そして、ながい戦いの後アメリカ軍が勝利し、世界に平和が訪れたと、兵士達の凱旋パレードの様子で終る。
Jap Japと連呼しながらも、もちろん日本に対して無差別攻撃をしたことも,原爆にふれることもない。

 帰りのバスの中、私の思いは複雑だった。
先生に、配慮をお願いする手紙を書くべきなのだろうかと、ずっと窓の外を見ながら考えていた。
でも、やっぱり書くべきではないと思う。

 これは,この国で育つ、この国で生きて行く者が、きちんと自分で咀嚼して、どんな場においても自分の考えを持つようにしていかなければならないことなのだから。
これは,真珠湾攻撃だけではなく、どのような問題に関しても、日本人でもあり、アメリカ人でもある我が家の子ども達にとって大切なことだ。

 昨日の遠足は、もう中学生。。。そろそろ、学校行事に母親がついてくるのを嫌がる年頃。きっと、もうこんな遠足について行くことを許してくれるのは最後かもしれないとおもって、そんな母親のセンチメンタルな気持もあって付き添いのボランテイアをかってでた。

 でも、心の底で、こんなことがあるのではないかと恐れていたのも事実。

 ショーがおわって、拍手喝采をおくるクラスメイトや大人達に挟まれながらも、次男坊は拍手をしてはいなかった。
ポケットに手を入れたままスクリーンを見つめる彼を、私は少し離れたところから見ていたのである。

 あなたを、こんなにたくさんの人たちの中で、たった一人の日本人として立たせておかなくてよかった。母は、甘いっていわれようとも、やっぱりそう思わないではいられなかったのよ。


 追。。。(Oct. 29. 2012  嵐の朝に)
 
 18歳になる我が家のお兄ちゃんが中学に入学した時、私はこの問題がいちばん心配だった。
日本とアジア諸国との歴史、真珠湾攻撃、原爆。。。多感な年頃のこどもが、すべてのことを,勝った側から一方的に教えられる教室にいなければいけないと思ったからだ。

 歴史の教科担当の先生にお話する機会があると、日本人のこどもがいることに配慮してくださいと常に伝えて来た。
もうそろそろ巣立ちを迎える今、「Jap」という言葉を人々があたりまえで使わなくなった今の時代でも、それなりな思いをしてきたのではないだろうかと、母親として思う時がある。

 それでも、彼なりの考えをもって育ってくれた。
彼は自分のidentityを説明するとき、日本は自分が生まれた Mother's country、アメリカは自分を育ててくれた Father's country と説明するそうである。
それでよいのだと,私は思っている。


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